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タリーズコーヒーの創業物語|創業者の経歴と日本上陸までの歴史

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1992年のシアトルから1997年の銀座へ受け継がれたタリーズコーヒーの歴史 タリーズ

タリーズコーヒーは米国で生まれましたが、日本事業は商標権を持つ別系統の会社として発展しました。

米国ではトム・タリー・オキーフ氏が1992年に創業し、日本では松田公太氏が営業権を獲得して、1997年8月7日に東京・銀座へ1号店を開業しました。

その後、日本法人は国内焙煎の権利と日本国内の商標権を取得。米国の店舗運営会社が2012年に経営破綻しても、日本のタリーズが営業を続けられた背景には、この権利関係と経営主体の違いがあります。国土交通省+3タリーズコーヒー+3松田公太オフィシャルサイト+3

タリーズコーヒーの創業者は誰?米国と日本の二人を整理

米国ブランドの創業者はトム・タリー・オキーフ氏、日本事業の創業者は松田公太氏です。

「タリーズコーヒーの創業者は誰か」という疑問に対しては、米国のブランド創業と日本事業の創業を分けて答える必要があります。

区分 中心人物・会社 始まり 役割
米国のタリーズ トム・タリー・オキーフ氏 1992年、米国シアトル ブランドとコーヒーショップを創業
日本のタリーズ 松田公太氏 1997年8月7日、東京・銀座 日本での営業権を得て1号店を開業
現在の日本事業 タリーズコーヒージャパン株式会社 1998年5月12日設立 伊藤園グループとして国内事業を運営

トム・タリー・オキーフ氏は、ワシントン州シアトルで不動産業を営んでいたコーヒー愛好家でした。タリーズコーヒージャパンの公式沿革では、1992年に自らスペシャルティコーヒーショップを開いたことがブランドの始まりとされています。タリーズコーヒー

ここで誤解しやすいのが、同じシアトルで成長したスターバックスとの関係です。

タリーズはスターバックスから分かれた会社ではありません。同じ地域のスペシャルティコーヒー文化を背景にしながら、オキーフ氏が独自に立ち上げた別のブランドです。

当時のシアトルでは、コーヒーを単なる眠気覚ましではなく、豆の産地や焙煎、エスプレッソの抽出、店舗で過ごす時間まで含めて楽しむ文化が育っていました。

ドアを開けると、挽いた豆の香りが立ち上がる。エスプレッソマシンの低い音が響き、カウンター越しに一杯が手渡される。

現在では身近な光景ですが、1990年代前半の日本では、まだ一部の人にしか知られていない体験でした。

その米国のコーヒー文化を日本へ運んだのが、当時三和銀行に勤めていた松田公太氏です。

松田氏の公式プロフィールによると、1995年にボストンのカフェでスペシャルティコーヒーと出会い、1996年にシアトルのタリーズと交渉。日本での経営権を獲得し、翌年に銀座1号店を開きました。松田公太オフィシャルサイト

つまり、タリーズの歴史には二つの出発点があります。

一つは、オキーフ氏がシアトルに店を開いたブランドの創業。もう一つは、松田氏がそのブランドを日本市場へ持ち込み、一から事業を築いた日本での創業です。

僕は、この「二段階の創業」こそ、タリーズを理解する最初の鍵だと考えています。

巨大な海外チェーンが完成済みの仕組みを日本へ移植したのではなく、小規模だった米国ブランドと、一人の日本人起業家が出会ったことで、現在の日本のタリーズが生まれたからです。


松田公太氏はどう日本上陸させた?銀座1号店の誕生

松田公太氏は銀行員を辞め、自ら米国本社と交渉して日本での営業権を獲得し、1997年8月7日に銀座1号店を開きました。

松田氏は筑波大学を卒業後、1990年に三和銀行へ入行しました。現在の三菱UFJ銀行につながる金融機関で、法人業務などに携わっていたとされています。松田公太オフィシャルサイト

転機は1995年です。

松田氏は米国ボストンでスペシャルティコーヒーに出会い、日本にも同じような文化を広げられないかと考えるようになりました。

本人が2023年に振り返ったインタビューによると、最初はスターバックスなどにも接触を試みましたが、面会には至りませんでした。

その後、当時シアトル市内に4店舗しかなかったローカルチェーンのタリーズと出会います。規模よりもコーヒーのおいしさに引かれ、電話やファクス、メールで交渉を重ねたと松田氏は語っています。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

松田氏は1996年6月に三和銀行を退職し、同年9月からシアトル本社との本格的な交渉を始めました。

安定した企業の日本法人へ転職したわけではありません。海外展開を前提としていなかった小さなブランドに対して、日本で事業を任せてほしいと持ちかけたのです。時代を先導するリーダーズインタビュー『私の哲学®︎』|編集長 杉山大輔+1

営業権を獲得した松田氏は、1997年8月7日、東京・銀座に日本1号店を開業しました。

タリーズコーヒージャパンの公式沿革によると、店舗は約24坪、38席。開業後はアルバイトのフェローや取引先、常連客の口コミに支えられ、翌1998年に増床・改装されるまでに成長しました。タリーズコーヒー

松田氏自身の回想では、開業資金は銀行から借りた約7,000万円でした。法人化前の小さな事業として始まり、店に寝泊まりしながら営業を続けたとも語っています。PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

現在の全国チェーンという姿から振り返ると、銀座1号店の成功は予定された結果のように見えるかもしれません。

しかし、当時のタリーズは日本でほとんど知られておらず、松田氏にもコーヒーショップの経営実績はありませんでした。しかも銀座での出店には、家賃や内装費を含む大きな固定費がかかります。

ここからは僕の分析ですが、銀座は単に華やかな街だから選ばれたのではないでしょう。

老舗と新しい文化が共存し、働く人、買い物客、海外からの訪問者が交差する銀座では、未知のコーヒースタイルを試してもらえる可能性があります。一方で、売上が伸びなければ資金は急速に減っていきます。

銀座1号店は、ブランドを目立たせるための舞台であると同時に、事業の成否を短期間で確かめる厳しい実験場でもあったと考えられます。

カウンターの内側に創業者本人が立てば、メニューを前に迷う表情や、飲み終えたカップ、再来店する客の変化を直接見られます。

松田氏が実際にどの項目を顧客調査へ反映したかは、公表資料だけでは断定できません。ただ、創業者が店舗運営を担ったこと自体が、日本市場を理解する重要な接点になったのは間違いありません。

※画像はAIによるイメージ

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日本のタリーズはどう独自化した?上場・MBO・商標権取得

日本のタリーズは、会社設立、株式上場、国内焙煎、MBO、商標権取得を経て、米国側に全面依存しない事業基盤をつくりました。

銀座1号店の成功を受け、1998年5月12日にタリーズコーヒージャパン株式会社が設立されました。

神谷町に2号店を開き、大手町、六本木、天王洲などのビジネス街へ出店を重ねていきます。現在の運営会社も、会社の設立年月日を1998年5月12日としています。タリーズコーヒー+1

日本事業の主な節目を整理すると、次のようになります。

年月 主な出来事
1997年8月7日 東京・銀座に日本1号店を開業
1998年5月 タリーズコーヒージャパン株式会社を設立
2001年7月 ナスダック・ジャパンへ株式上場
2001年9月 日本国内でコーヒー豆の焙煎を開始
2002年 持株会社体制へ移行
2004年 MBOによって非上場化
2005年8月 日本における商標権などを完全取得
2006年11月 伊藤園グループ入り
2007年 松田公太氏が社長を退任
2008年 運営会社を再編し、現在の商号へ移行

松田氏の公式プロフィールによると、2001年の上場は会社設立から3年2か月後でした。当時の外食企業としては異例の速さで、100号店の開業や全国展開へ向けた資金調達にもつながりました。松田公太オフィシャルサイト

同じ2001年には、日本国内でコーヒー豆を焙煎する権利を取得し、9月から国内焙煎を開始しています。

公式沿革は、国内焙煎を品質への考え方を具体化した取り組みと位置づけています。タリーズコーヒー

国内焙煎によって具体的にどのような味の変更が行われたかは、公開資料だけでは断定できません。

ただし、焙煎と供給の工程を日本側で管理できれば、店舗へ届けるまでの時間、品質確認、商品開発のスケジュールを、日本の事業環境に合わせて設計しやすくなります。これは経営上の自由度を高める動きだったと僕は考えます。

2004年にはMBOを行い、株式を非公開化しました。

松田氏は後年、MBOの背景には米国タリーズとの合併構想があったと説明しています。米国側の経営を立て直し、アジア展開へつなげる計画でしたが、米国創業者の同意を得られず、合併は実現しませんでした。時代を先導するリーダーズインタビュー『私の哲学®︎』|編集長 杉山大輔

そこで日本側が次に進めたのが、国内の権利を押さえることでした。

2005年8月、日本法人は米国のTully’s Coffee Corporationから、日本における「Tully’s Coffee」の商標と営業に関係する商標権を完全取得しました。

国土交通省の官民対話促進会議にタリーズコーヒージャパンが提出した資料では、これにより日本独自の商品開発や柔軟な店舗展開が可能になったと説明されています。国土交通省+1

これは、歴史上もっとも重要な出来事の一つです。

営業許可だけで海外ブランドを運営する場合、契約の終了や本国企業の経営方針によって、店名や商品展開が影響を受ける可能性があります。

日本の商標権を自社で保有すれば、少なくとも日本国内では、看板、店舗、商品開発を長期的な資産として育てやすくなります。

言い換えれば、タリーズコーヒージャパンが手にしたのはロゴや名前だけではありません。

自分たちの顧客に合わせて、ブランドの未来を決める権利でした。


米国タリーズはなぜ破綻した?2009年売却と2012年Chapter 11

米国側ではブランド・卸売事業と店舗事業が分離され、店舗運営会社のTC Globalが2012年10月10日にChapter 11を申請しました。

米国タリーズの歴史を理解するには、2009年に行われた事業分割が重要です。

2009年3月、Green Mountain Coffee Roastersは、Tully’s Coffee Corporationから「Tully’s」のブランドと卸売コーヒー事業を4,030万ドルで取得しました。

米国証券取引委員会へ提出されたForm 8-Kにも、ブランドと卸売事業に関する資産の取得、および現金による4,030万ドルの支払いが記載されています。Keurig Green Mountain+1

ただし、この取引で米国の店舗そのものがGreen Mountainへ移ったわけではありません。

発表資料では、米国の小売店舗はGreen Mountainとのライセンス契約と供給契約のもとで営業を継続し、店舗・国際事業はTC Globalという独立会社に残ると説明されていました。Keurig Green Mountain+1

2009年以降の関係を簡略化すると、次のようになります。

事業・権利 主な保有・運営主体
北米のTully’sブランドと卸売事業 Green Mountain Coffee Roasters
米国のコーヒーショップ事業 TC Globalがライセンスを受けて運営
日本国内の店舗・商標権 タリーズコーヒージャパン
日本の親会社 2006年から伊藤園グループ

ブランド、卸売、小売、日本事業が同じ会社の中に存在していたわけではない点が重要です。

米国の小売事業を引き継いだTC Globalは、その後、経営難に陥ります。

米国ワシントン西部地区破産裁判所の記録によると、TC Globalは2012年10月10日、米連邦破産法第11章、いわゆるChapter 11の適用を申請しました。インフォラプシー

同社の発表では、申請時に不採算だった19店舗を閉鎖しています。

再建手続き後の2013年7月、TC Globalは主要資産をGlobal Baristasへ売却しました。売却時点では、ワシントン州とカリフォルニア州で47の直営店を運営していたと説明されています。PR Newswire

その後も米国の店舗事業は安定せず、2018年3月にはコーヒー在庫の不足や再ブランド化を理由として、店舗が休業・閉鎖状態になったと報じられました。KING 5+1

ここで、日本の読者が最も気になるのは、「米国のタリーズが破綻したのに、なぜ日本の店舗はなくならなかったのか」という点でしょう。

理由は、日本事業がTC Globalの直営部門ではなく、日本国内の商標権を保有する別会社として運営されていたからです。

2005年に日本の商標権などを取得し、2006年には伊藤園グループへ入っていたため、2012年の米国小売法人の破綻が、日本店舗の看板使用権や運営会社を直ちに失わせる構造ではありませんでした。これは、日本側の権利取得資料と米国側の事業売却資料から導ける結論です。国土交通省+2Keurig Green Mountain+2

※画像はAIによるイメージ

伊藤園グループ入りは何を変えた?現在まで続く二つのタリーズ

伊藤園グループ入りによって、日本のタリーズは店舗内のカフェ体験と、店舗外の飲料商品を組み合わせるブランドへ発展しました。

日本事業は2006年11月、伊藤園グループの一員として新たな歩みを始めました。

松田氏の公式プロフィールでは、2006年に会社株式の過半数を伊藤園へ譲渡し、2007年にタリーズコーヒージャパンの代表取締役社長を退任したと整理されています。タリーズコーヒー+1

創業者が退任しても事業を続けるには、個人の情熱を組織の仕組みに変える必要があります。

タリーズでは2000年にバリスタコンテストを始め、2001年に国内焙煎、2006年にコーヒースクール、2007年にコーヒーマスター制度を導入しました。創業者が一杯ずつ確かめていた品質を、教育や資格、競技を通じて再現する体制へ移していったのです。タリーズコーヒー

店舗では現在も、注文を受けてからバリスタが半手動式のエスプレッソマシンを使用し、一杯ずつ抽出しています。

使用するコーヒー粉の量、抽出温度、時間、抽出量などには細かな基準が設けられています。タリーズコーヒー+2タリーズコーヒー+2

半手動式のマシンは、ボタンだけで仕上がる全自動方式より、人の技術が味へ反映されやすい仕組みです。

これは魅力である一方、店舗数が増えるほど研修時間、技術確認、指導者の育成にコストがかかることを意味します。

僕は、この教育コストこそ、タリーズ固有の経営課題だと見ています。

抽出を完全に自動化すれば店舗運営は効率化しやすくなります。しかし、人が粉を詰め、一杯ずつ抽出する工程まで手放せば、タリーズが長年積み上げてきた「バリスタのいる店」という違いが薄くなる可能性があります。

伊藤園との組み合わせは、もう一つの販路を生みました。

伊藤園は2007年5月から「TULLY’S COFFEE」ブランドの飲料製品を展開し、ボトル缶、ペットボトル、紙容器などを通じて、店舗の外にもブランドを広げてきました。2018年4月には、飲料ブランドの累計販売数量が1億ケースを超えています。伊藤園 企業情報サイト

店舗では、豆の香り、マシンの音、カップの温度、フェローとの短い会話まで届けられます。

飲料商品は、通勤電車に乗る前、車を運転するとき、職場の机、自宅の冷蔵庫など、店舗がない場所へタリーズの名前を運びます。

この二つは同じコーヒーでも、役割が異なります。

店がブランドへの信頼を育て、飲料が日常的な接触回数を増やす。飲料でタリーズを知った人が、今度は店舗のラテを試す可能性もあります。

日本のタリーズは、単なるカフェチェーンではなく、店舗体験と流通商品が互いを補強するブランドへ変わったのです。

2026年8月5日時点で、タリーズの公式店舗検索には全国850店舗が掲載されています。

公式の会社情報では、国内焙煎、バリスタによる抽出、年間4,000回を超えるコーヒースクールを続けながら、「地域社会に根ざしたコミュニティーカフェとなる」という考え方を掲げています。店舗数や営業状況は変動するため、利用前には公式店舗検索で最新情報を確認してください。タリーズコーヒー+1


タリーズコーヒーの歴史から何が見える?考察とまとめ

タリーズの強さは、海外ブランドを輸入したことではなく、日本で継続できる権利と仕組みを段階的に築いたことにあります。

1992年、トム・タリー・オキーフ氏がシアトルに開いた一軒のコーヒーショップ。

1997年、松田公太氏が銀座に開いた約24坪、38席の日本1号店。

この二つの店は同じ名前を掲げていましたが、その後の歩みは異なりました。

米国側では、2009年にブランド・卸売事業と店舗事業が分離され、店舗運営会社は2012年にChapter 11を申請しました。

一方、日本側はその前の2001年に国内焙煎を始め、2005年には日本の商標権を取得し、2006年には伊藤園グループへ入りました。

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